神社由緒
長良の氏神さま、天神神社は、菅原道真公を祀り今から約800年前に京都北面の武士から美濃の国の目代に任じられた斎藤家によって建てられました。斎藤家は京都北野天満宮を奉信しており、美濃に赴任し金華山に城を築くと共に守護として、当神社を祀りました。
その後、寛正年間(1460~1466)斎藤利藤が本殿を造営し、天正16年(1588)池田輝政が社壇を構築寄進し現在も残っています。
江戸時代になると長良が尾張藩の所領となり、尾張藩や支藩高須城主も亦当神社を尊崇し、藩主代替わりの度に参拝を恒例として篤い崇敬を寄せられた。十代藩主義建侯は二度に亘って神額を奉納されている。
かく武門の篤い尊崇が寄せられたので郷民の崇敬も亦厚く、長良三郷の惣社と仰ぎ、慶長年間(1596~1614)に社殿の造営、元和年間(1615~1623)に拝殿の再建、享和元年(1801~1803)本殿の造営(現存)、嘉永五年(1852)に拝殿の造営(現存)を奉仕する等、古来より神威の高い神社である。
昭和34年伊勢湾台風により、森厳な森の大木が倒伏し、社殿が破損し昭和36年復興造営奉賛会が設立され、祭文殿、祝詞殿、社務所、神門、参集殿を新築。翼廊を増築し、境内整備が行われ昭和61年に南大鳥居が竣工し、社頭の尊厳が一新、神威ひときわ高く輝き、現在に至っている。
鎮座地 | 〒502-0071 岐阜県岐阜市長良1972-1 |
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御祭神 | 菅原道真公 |
創立 | 不詳(鎌倉時代後期と推定) |
境内地 | 約4,500坪 |
主要建物 | 本殿(享和元年)拝殿(嘉永3年)祭文殿(昭和39年)社務所(昭和41年)神門、参集殿(昭和43年) |
境内神社 | 正一位辰山稲荷神社 |
境内地約4,500坪
御本殿石垣
拝殿前の梅
境内神社 正一位辰山稲荷神社
境内神社 正一位辰山稲荷神社
境 内
十代高須藩主徳川義建侯自筆
左から嘉永元年三月四日、副額、嘉永五年三月
菅原道真公と牛と梅
菅公の御神徳
当神社の御祭神「菅原道真公」は、天資学徳にすぐれ給い、五才の時庭の梅花を見て
うつくしや紅の色なる梅の花
あこが顔にもつけたくぞある
と和歌を詠じ、十一才の時同じく梅の漢詩
月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金競転 庭上玉房馨
(晴れ渡った空に月が輝いて、梅が星のように無数に咲き匂っているので、可愛そうに贅を尽くして造られている金殿玉楼が色を失っている)
を作って神童の誉れ高く、十八才にて文章博士となられました。又、書道にも長じ給い、藤原行成、藤原佐理と共に三蹟と称えられ、宇多上皇の御信任厚く、第六十代醍醐天皇の御代右大臣に進まれたが、藤原時平のため強訴されて大宰府に流され、延喜三年二月二十五日薨じ給う。薨去と共に神異が起こり、天満大自在天神として顕現され、大宰府天満宮、北野天満宮に鎮祭されました。
一条天皇の正暦五年(994)朝廷より、本社北野天満宮に「正一位天満大自在天神」(威徳天に充満し自在に霊驗を現わし給う神)の御神号が贈られ、朝廷崇敬二十二社に列された、学徳守護の篤い信仰が寄せられている神であります。
爾後、文学守護の御神徳は、全国に広まり、庶民生活の中に天神信仰となって、科学文化の開けた今日では、学問守護はもちろん文化生活の守護神としても広く尊崇されています。
菅公と牛
菅公のお生まれが丑年の丑の日であって、菅公も牛に御関心が深く、御年十五才の元服の夜、白牛大木に打たれ死すの夢を見られ、それからその牛像を画かれて御拝されたと云うことです。
寛平五年北山に茸狩のとき、山中で白い小牛を得給い愛育されましたが、其の後配所大宰府に赴かれる途中、河内の「こもやの里」で藤原時平の討手が菅公を殺害せんとするとき、この牛が馳けて来て、角でこの賊を突き殺しお助けしたと云われています。
また、大宰府で薨じられた時、御棺を牛に引かして葬場に向かう途中、牛が坐して動かなくなった。其の処は丁度菅公が生前に御好みになった景地であったので、神意ならんと其の地に葬った。これが安楽寺であり、今の大宰府天満宮の地であると云うことです。こうした数々の言い伝えから菅公と牛とが信仰的に深く結びついています。
菅公と梅
菅公は菅原是善卿の御子として、第五十四代仁明天皇の御代承和十二年六月二十五日丑の日に誕生されたと伝へられますが、その御屋敷が紅梅殿と称せられ、母君懐妊の時、梅実懐中に入るの夢を見給い御誕生の時、口中に梅実を含んで居られ、この実を庭に植えたるに一本の白梅となる。
後世、菅公が大宰府に流され給うた時、筑紫に飛行したのが、この白梅だと云われて居ります。古来、梅の異称を「好文木」と言われて居り、文神である菅公と梅の結びつきも又神秘なものがあります。