菅公物語

天神さま物語

神秘に満ちた御生誕

天神神社の御祭神は、菅原道真公を祀り、御神号を天満大自在天神と称えるのであります。
菅原家は第49代光仁天皇の御代に、土部宿祢古人卿が菅原の姓を賜わり、古人卿の孫に当る菅原是善卿が、道真公の御父であります。
菅原家の元祖は、天穂日命にはじまり、その14世の孫野見宿祢が第11代垂仁天皇の御代に、土偶をもって殉死に替えることを建議した功によって、土師姓を賜わったと言う、由緒ある家柄であります。
母君は薗文子姫と申し、道真公は第54代仁明天皇の承和十二年6月25日(丑の日)に生まれられ、幼名を梅園丸(御屋敷を紅梅園と呼ばれていた)と名付けられたのであります。
道真公の御生誕について、母君が夢で、庭園の青梅が風に吹かれて、落ちるはずみに飛びはねて、懐に入ったので驚いて、
人ならば浮名や立たん 小夜ふけて わが手枕に通う梅が香
と歌詠みして夢から醒められたがそれより懐妊されたと言われ、御生まれになってから25日間、口中に一物を含んで出されないので、法性房の僧正を招じて念誦されたところ、口中より一つの梅実を吐き出された。これを庭に播かれると、一本の白梅が生えました。
この不思議が広まり、朝廷から勅使が差遺されて、御名を道実と賜わったのであります。
この道実の御名は仁明天皇から賜わった文字で、古今実録、菅公御一代記には、この文字が使用されているが、菅公の御一代が真実一路であった御徳を称えて、何時の時代からか「道真」と記されるようになりました。
又口中から出た梅の実から成長した白梅が
東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ
と言う菅公の歌に感じて、菅公を慰めまつったと言う、飛梅神話が伝わっているのも、菅公御出生の神秘を物語る一つであります。

神童ぶりを発揮

菅公の御生誕が、梅と深い縁故に結ばれたことを、前号で述べましたが、更に伊勢外宮に仕える神職、度会春彦と不思議な神契に給ばれた、物語りが伝えられております。
度会春彦と言う人は、幼ないときから頭髪が白かったので、白太夫と呼ばれ、学問の道に深く通じておりました。
この春彦が夢の中で、天上の神童が現われて「われ都に名高い菅家の一子と生れ出るから、その時は必ず心を合せるように」と言って姿が消えました。
この夢が、一度ならず四度重なるに及んで不思議に思い、上洛の折りに菅家に立寄り、このことを菅原是善卿(菅公の父君) に伝えたところ、是善卿も不思議に思って「一子が生れたら必ずお知らせしましょう」と約束されました。
それから間もなく園文子姫(菅公の母君)が御懐妊され、菅公がお生れになったので、早速この旨を度会春彦に知らせられたのであります。
上洛した春彦が菅公を抱き上げると、菅公は赤子乍ら気嫌よくされ、下に置くとむずかれるので、是善卿はいよいよ不思議に思って春彦にお守り役として、菅家に留まるように頼まれ、春彦は終生菅公にお仕えされたのであります。
こうして神秘に満ちた御生誕をされた菅公は、後幼少から神童の評判高く、数々の逸話が語り伝えられています。
さて菅公が5才になられたときのこと、庭の紅梅が美しく咲いているのを眺められ、日頃お側に仕えている待女が、口紅をつけて化粧しているのを思い浮べられたか
うつくしや紅の色なる梅の花 わこが顔にもつけたくぞある
と和歌を詠まれて居並ぶ人を驚かされたのであります。
この噂さが広まり天聴に達して、朝廷からお召しになって、父君是善卿と共に大前に伺候されますと、時の帝仁明天皇は菅公を御覧になって
「汝学問して父祖にも勝り家名を輝かすように」
と勅諚を賜り、面目をほどこしてお帰りになったのであります。

18才で文書生に合格

5才で和歌を詠んで、神童ぶりを発揮きれた菅公は、8才の時碩学者都良香に師事して、学問を修められたのでありますが、その学識は先天的なものがありました。
11才の春、父是善卿が菅公をためさんと、今宵の情景を作詩せよと命ぜられると、菅公は筆を執て即座に
月嘩如晴雪 梅花似照星 可憐金競転 庭上玉房馨
(晴れ渡った空に月が輝いて、梅が星のように無数に咲き匂つているので、可愛そうに贅を尽して作られている 金殿玉楼が、色を失つている)
と作詩されたので、並みいる人々が唖然としてしまった。(菅公はじめての作詩)
これを聞いた師の都良香卿は、その英才を歎じて「我が才到底菅公に教える力が無い」と師範を辞退し、その後は学友の交りをされたと伝えられています。
菅公が15才のとき、元服して幼名梅園丸を道実と改められましたが、このとき母君が
久方の月の桂を祈るばかり 家の風をも吹かせてしかな
と祝福されたことは、我が子の出世を願う「母ごころ」が滲み出た名歌と、たたえられております。
さて母君がこの歌を詠われたことについて、少し説明をさせていただきます。
当時菅公は文書生の試験を受けるため、勉強中でありました。文書生とは宮中の大学寮に登用される国家試験で、高度な学力が要求されていました。
この文書生に合格することは、学問で朝廷に仕える菅原家にとって、必要な第一関門であったわけです。「月の桂」は文書生の意味がこめられ「家の風」には合格して菅原家の名誉を守る願いが込められた、母君の親心であります。
貞観四年四月、菅公は美事に文書生に合格されました。その当時稀有と言われた18才の最年少の記録であります。其後成績優秀で文書得業生となり、前後して第56代清和天皇御学問の御相手に選ばれたのであります。
菅公の博学多才且つ忠誠な人柄がしのばれるのであります。

菅公と牛の神秘な伝説

さて菅公がお生れになったのは第五十四代仁明天皇の承和十二年6月25日で、これが丑年の丑の日であったことから菅公と牛とのかかわりが、神徳の一面として神秘的に伝えられております。
菅公が元服されたのは、第五十六代清和天皇の貞観元年2月の丑の日、御年15才の時でありますが、その元服の儀式をすまされた夜、南庭の松の大木が大風に倒れ、下につないでいた白牛が圧死する夢を御覧になったことを気に掛け、自から白牛を画がいて、丑の日を忌日として祀られております。
其の後第59代宇多天皇の寛平五年九月、北山に葺狩の宴を催された時、何処からともなく白い仔牛が現われて、菅公になついた素振りをするので、菅公は前の白牛倒死の夢のことを思い出されてその牛を家に連れ帰り、牛車を引かせることにされました。不思議にもこの白牛は、御者の指図を待つことなく、菅公の心を察知して行先に牛車を引いたと言います。
さて、第60代醍醐天皇の延喜元年正月24日夜、突然この白牛が菅公の屋敷より姿を消してしまいました。翌25日朝、菅公がこのことを案じて居られるところへ、宮中から勅使が到着して太宰権師左遷の命が伝えられたのであります。これは菅公を妬む左大臣藤原時平一派の陰謀でありますが、菅公は止むなく九洲へ旅立たれることになりました。
菅公が九洲に赴かれる途中、河内に住む叔母に別れを告げ、こもやの里に至りますとき、菅公一行は藤原時平の放った刺客に襲はれ、あわやの危機に直面されたのでありますがその時忽然と屋敷から姿を消した白牛が現はれ、刺客を撃退したので、菅公ははじめて白牛が姿を消した意味を知られ、それよりはこの白牛を伴って九洲に行かれたと伝えられています。
この白牛は其後背公が九洲で亡くなられたとき、その枢を引き、途中坐り伏せたところが、平常菅公の愛された所であったので、そこに葬ったのが、今の太宰天満宮の場所と伝えられ、菅公と牛との関係は、菅公の神徳の尊い一面でであります。

菅公と伊勢暦

暦(こよみ)は日時の推移を示すもので、生活にはなくてはならないものでありますが、日本では推古天皇の御代に、百済僧観勤が暦本を献上してから用いられるようになつたと言われています。
其後暦法がしばしば改められて第五十六代清和天皇の貞観三年から宣明暦が用いられるようになりました。
当時の暦は漢文で書かれて通常の人では読みにくいものであり、翌年の貞観四年、まだ十三才の若い天皇は菅公を召し寄せて、暦の読方を御下問になりました。
菅公が即座に御説明申し上げると非常に喜ばれ、「暦は便利なものであるが、これでは利用に不便であるから、わかり易い仮名書の暦を作れ」と命じられました。
菅公が二十一日間別殿に籠り、わかり易く仮名書にした暦を上覧に入れたところ、天皇は大変よろこばれて「早速これを全国に配り諸人の便に供するように」と御委嘱になりました。
菅公は護しんで御命を受け、この暦を侍臣の度会春彦に渡して、全国配布方を講ずるように言付けられたのであります。
度会春彦は前にも述べたように伊勢外宮の神官でありましたが、菅公御生誕のとき霊夢を見だ因縁によって、菅公にお仕えすることになつた人で、若い頃から白髪であつたことから白太夫と呼ばれております。
度会春彦は早速この暦を外宮度会家の小内記方へ遣わして、国々に配る手配をしたのであります。これが所謂「伊勢暦」の起原でこの後伊勢暦は毎年神宮から全国に配られるようになつて、庶民生活に、大変役立ったので、これも菅公の学徳の一つとして称えられているのであります。

菅公雨乞いの奇瑞

第58代光孝天皇の仁和二年菅公が四十八才のときに、讃岐守に任ぜられて、任地四国の讃岐に赴任されました。
菅公は讃岐に赴任されると共に皇徳の遍ねからんことを念とし、殖産興業の治績を挙げられました。
仁和四年、讃岐地方に大旱魃が起こり、田畑の作物が枯死寸前の惨状となりました。
菅公は国守として、この農民の窮状を見かねて
「唐土では昔、王が旱魃を憂い薪を積み重ねてその上に座し、火を放って自分の身に替えて農民を救い給えと祈ったところ、天神その真心に感応し、大雨を降らせて火を消し止めたと云う故事がある。我も城山頂上にて断食を以って雨を祈らん」
と仰せられて、城山頂上に祭壇を設け、身を清めて登山し、祭服を着して祭壇に籠られた。
「いまこの国は旱魃の災いで困窮の極にあります。自分は帝の勅を受けて此の国を治めているが若し誤りがあれば、我れを罪して農民を助け給へ」
と七日間断食行をして祈り続けられました。旱天山頂の断食行は相想に絶する難行苦行であったと伝えられております。かくて満願の七日目の午後に至り、今まで雲一つもなかった蒼天が、俄かに雨雲に覆はれ、雷雨が一しきり降り続いて、田畑の農作物が生き生きと蘇生し、地方民はいよいよ菅公の恩澤に心服したのであります。
6年間の任期が終って、いよいよ京都に帰られることになると、郷民はこれを聞き、国衙に参集し大地に座って涙を流し、菅公との別れを惜しんだと云われています。
その後讃岐では、菅公の在任中の恩徳を慕って、菅公の居られた政庁の所在地に、菅公を奉祀したのが、今に神威高い滝の宮天満宮の縁起であります。
この物語は、菅公が学徳ばかりでなく、行政にも優れたお方であったことを証すると共に、神としての本質を具有されていたことを、伺い知ることが出来るのであります。